第六章

大衆は、その前を行く指導者なしには、前進する事が出来ない。


現実の外に吾々を置く様な計画によって、現実の困難さを克服する事は出来ない。現実から出発する事が肝腎であり、現実を変革する為に、現実の中に入り込まなければならない。

「現実に訴えて現実の中で生きる事、化石化したイデオロギーの中ではなく、現実の中でこそ経験が触発されるのであり、労働と団結の標語の下で、その分けられる人間化の発展を通じて、その要請を行うのである」。

展望に欠けた者、単調の現実に疲れた者にとって、欠けているのは関心である。即ち、富クジや競技・賭博例え多くの参加者が居たとしても、必要な社会推進手段とはならない。

明日の、人間の為の新しい構造を用意する為には、現在の人間を尊重するしかない。言葉と「行為」に基づき、現実の人間を、新しい人間に変革する方式を行うこと、誰にもそのような能力はある。

吾々は、案内人と理想の励ましが必要であるが、「しかし、それを諸理念の扇動と、混ぜ合わせてはならない」ある理想が、実現出来ないものであるならば、容易に何も前進させる事のない、ロマンシチズムに陥ってしまう。

吾々の義務は、吾々全てを救済する事であるが、その為の実践的な手段なしに、達成出来る者であろうか。

吾々(バスク人)の性格の一つは、実践的な感覚であり、「理想」に対して、無関心になったり、諦めたりする事なく「可能性」の範囲の中で、活動する事を知ってる事である。

「吾々は、合理主義と諦めや無分別に陥らない規律を提案する」。

アリスは総じて、具体的な資料・数字・統計を好んだ。しかし、それは第三世界に関してだけであった。

モンドラゴンに於ける、革命の必要性の理由としては、「物質的な貧しさよりも、人間の尊厳の為だったと思われる。」

その、革命の諸目的は、単なる経済的悲惨の克服よりも、一層かなたに行くものであった。

実戦的な人間である為には、結局、吾々は毎日行なえる改革に、着手しなければならない。

既存の制度が、正義・自由・真実の要請と両立しない時、吾々は、自分達の不満を隠す事が出来ない。

吾々は、全ての人が尊厳やまともさや、誇りの為に行わなければならない事、状況を克服する為に、自分達の力を以て、貢献しなければならない事を、理解している。

もし、革命にとって協同と援助が、共同体をよくする為の、共同の責任である事が分れば、吾々は、自分達が革命家である事を、宣言しなければならない。

「しかし、全ての変革行為は、自己犠牲と自己確証を伴うものである。結局、革命の正当化は、より良い体制の設置と、人間の振興への真の寄与と、自らの真正さに基づくのである。」

「革命と振興は、異なる二つの選択肢ではない。人間と社会の振興その可能性と影響が、受け入れ可能な革命と内容の、基準と手段である」。

吾々は、革命家であろうが、然し暴力的ではない。というのも、しばしば革命は何か叩いたり、襲撃したり、暴力を用いたりして、獲得するものだと、思われているからである。

人は、革命を多く語るが、自分自身の幸福や達成が、損なわれないよう、兎角多くの物を獲得し、消費し、支配しようと願って、細かな心配をしている。

このような人々の言う、革命の有効性に吾々は強い疑念を示したい。外部の現象に無関心な生活とは、他人に自分の生活を任せる事である。

従って、真に吾々が自分達を陽気であり、小さな者であると感ずることに、つまらないパンフレットやデモや新聞よりも、真正な革命について、より効果的であるに違いない。

アリスが望み、必要だと考えていた革命は、結局のところ、内面的な革命であり、意識の革命であり、或る意味では、宗教的な改心に近いものである。

「吾々は、少な目の旅や服や壮麗さで十分である。それらの贅沢は、多くの者にとっては、適わない事である。お金が人間にとって、全てではない事を、我々はしっている。」

これが、アリスが真に、変革的ななエネルギーを見出した、良心の力である。奉仕や意識や主教が、吾々をより本質的に、充足したものにさせるものである」と。

「良心の暴力と方法としての、又は手段としての暴力を、同一視する事は出来ない」。

革命の目的を、好きなだけ濫用する事が、名声のイメージを、獲得する事になっている事を批判した。というのも彼らは、富や権力を何等かの方法で求め、他人に奉仕するよりも、自分を飾りたてているからである。

一人は万人の為に、万人は一人の為に、吾々が、外部と混ぜ合わさろうと云う時、具体的には労働の世界に向う時、吾々は改革と振興を選択する。

これは、合理的な目的である一方(暴力的)革命が、盲目的な暴力や、強力多大な犠牲を強いる事を、示すだろうか。

その革命は、価値を生み出す事知らず、自ら崩壊し、人々を無慈悲に消耗し尽くす。吾々は、場面を変えるだけでは、不十分なのである。

革命は、多くの人々が出発出来る事から、始めなければならない。吾々に必要なのは、展望のない計画や、具体的な目的や、効果的な貢献の、要請のない計画を、見分ける力である。使命と不屈の能力をもって、活動する人にとって、それは必要である。

アリスは、瞬間的な攻撃によって、支配的な権力を、放逐しようとしたり、新しい社会の建設の為には、新しい体制を建設する、責任のある人々が、必要である事を忘れている。、

この革命の、短絡した概念に反対した。即ち、全ての人民は活動的に、毅然として参加する、意識と決意を持たねばならない。

革命は、教育の長い過程を必要とし、時間を必要とする。瞬間的な革命を夢想する人々は、時間的要素を失念している。

彼らは、その夢想の中で、時間の世界が、観念や願望の、時間の無い空間を、飛翔するのである。

革命は、一にも二にも人々と共に、又は人々の為に、影響を与えようとする変化で代案である。多くの人々を焚きつけ、一時的でしかない革命は、些か作り話めいて少々喜劇的である。

このような革命は、吾々に役に立たない。根拠のない吾々の周囲に現われている、多くの叫びや子供っぽい突発現象に対して、吾々は当惑をおど感じているのである。「時間」の放浪者達は、吾々に与えられた教訓である。

吾々は、芝居がかったものや、作り話めいた事には、殆ど関心がないし、変化の為の効果を、全く期待していない。

幻想ほど、革命にとって有害なものはない。明晰でハッキリした真実ほど、革命に有用なものはない。

アリスが願っていた革命は、日々の革命である。「日常的な革命は、新しい機構の中に効果的にに確立する、変革から成っている。

この革命は、決してユートピアでもなく、回避でもない。「それは吾々が、想像する以上の新に到達する事の出来る、連鎖の一過程に成る」。

誰も吾々の時代や、周辺の人間的・社会的問題の複雑さや、幅広さに対して、無干渉や無関心であってはならない。

しかし、吾々は吾々の精神的・社会的前提や、一致した活動の方法や、共同の目的や、共生や関係の規則と強く結びついた、活動の全てを意識的に行ない、統一して進まなければならない。

団結は力であり、複雑な深い問題は、平準な公式や短時間で、解決出来ないものである。労働者に、協同組合主義者たる吾々は、成熟した人間としての実を、示さなければならない。

瞬間的革命の相違点は、その目的ではなく、その手段と方法である。

真に、深く永遠的な変革は、一回の打撃で、達成出来るものではなく、幾度もの打撃により、又協同と自由の中で、実現されるものなのである。

貧しい経済の中で、仕事を創出し豊かにある為には、新しい実在的な変化がのんかn必要である。吾々は、人間に必要な経験を持っている。より人間的になる為に、吾々が革命は、立上ったのである。

しかし、人間が人間らしくある為には、傷ついた人々の解放が必要であり、人間にあい相応しい公正と協同が、実現できない現実を主張して、革新することはできない。

「理想」は十分に、手に入れられる理念を、持たなければならない。疑いもなく吾々の協同組合主義は、自由を愛する毅然とした人民にとって、様々な結果を与え掛けている。

「人々よ、歩みを続けている人々の友よ、吾々は吾々の起源を拒否せず、吾々の共同の意識に背く事なく吾々の<革命>を、行わなければならない。」

「さらには、上からの積極的な参加の過程に於いて、変革の為の闘争と云う、吾々の使命を実行しなければならない。」

「木が新しくなる事は、上辺の茂みからばかりでなく、根っこから成っているのである。」

「吾々は、多数者の主導性と責任を訴える。意識的な者達だけでは、吾々は不十分である。多数者の利益や、立場を制度的に揚棄した時に、多数者の為になったと、確証されるのである」。

アリスの、思想の重要な点として、人民や教育・自由、即ち自由な機構、意識と革命・経済力と労働に依拠する、指導者の必要性といった、多くのテーマに、彼が取り組むことを見出す。

大衆は、その前を行く指導者なしには、前進する事が出来ない。大衆は、実際案内人に付いて行かなければならないが、決して、盲目的であってはならない。

案内人の役割は、教育者・人間の造形工であり、原動力である。希望をもって命令する、人間たちが必要である。

しかし、命令は奉仕と寛大さであると、理解している者が必要である。結局指導者ではなく、一般的な意識の反映と表現を通じての、真の生活を齎し、革命の成功を保証するのである。

ブルジョアジーのヘゲモニーは、労働者人民が、その独自の文化労働市民文化を、所有する時にのみ取って変る。

吾々は、教義を経験と共に創り出す事実を比較して洞察を行う。団結と共に力を創造する曇りのないコミュニケーションにより、意識を作り出す。

吾々は、障害を乗りこえる為、堅い決意によって、問題に直面する為の力がある時に、地下を歩く事は好まない。あで

諸力を計算し、目的を共に分かち、凡ゆる、止むを得ない諸制限を認識して前進しよう。従って、吾々は永続的な立場に立っているのである。

謂わばそれを、人間的価値が由来する共生や、使命に分有出来る限界まで、推進し強化しようと云うのである。

その為に、倫理的であり、普遍的であり、永続的でなければならない。永続的な変革の解体、又は、廃棄な人間的社会的な在り方の、完全な反自然化であり、反道徳化である。
彼の革命は、その目的と同様に手段も、変革の手段も、民主主義である事を欲している。従って暴力の力は、労働と意識の力に取って変られる。

軍隊や、兵営のような、共同体の中に居たがる人民と云うのは、人間的でもなければ、共同体的でもない。彼らは、群衆や兵隊に過ぎない。

吾々の、地域の協同組合運動の姿は、進歩的な発展であり、より良い将来の約束である、希望である。

協同組合主義者のメッセージは、革命の神話を捨て去るばかりでなく、吾々の社会の諸構造や人間的基盤に対する、より、根本的で広範な変革に参加する為に、不可欠なものである。

然しながら、理念は人間が居なければ、何の意味もない。人間が、理性に生命を与える物である。もし吾々の理念が、吾々の兄弟から引離すものであるならば、吾々は改めて理念的和解を計らなければならない。

この姿勢は、次のモットー示す、即ち、「労働の団結」である。

吾が戦っている者の為の、新しい文明の最高利益の為に、今日何より必要な事は、教育は人間教育であり、自由の為の教示であり、自由な共同体の為の、自由な人間の形式であると謂う事である。

変革が進むに連れて、革命はもっと苦難に満ちたものになるものだ。又社会的出来事も、苦難に満ちたものになる。歴史的変革を絶え間なく進めて行けば、その裡、容易になって来るだろう。

アリスは所謂、体系だった思想家ではなかった。彼は歴史や生産の理論の、哲学的分析から始めたのではなく、人格の具体的な哲学的概念から始めた。

デカルトが言うように、現実と謂う大きな書物を読む事から、彼の思想は出発したのである。彼の教育は、神学校から始められ、そこで、フランス人格主義哲学の影響を強く受けた。

マルクスの「資本論」を引用して、教育と労働を一緒に行なう事が、将来の教育の在り方であると主張した。

青少年に対する教育を、彼は、カントの理念即ち、人間は教育に依って人間に成る、と謂う理念に基づいて進めた。

更に、「全ての人は他人に、教えるべき何かをもっている」「各人は、その可能性に従って要求し、その必要性に応じて与えられる」。

労働とは、仁愛であり、創造者であり、神との協同であった。労働とは、本来的に責苦ではなく、神と人間との信頼の確証であった。

労働のみが、人間の性格を変える。労働は、人間化の要素であり、労働の社会化の中で、人間を変化するものである。

アリスは、所有概念を常に、労働の義務と結び付けていた。「共産主義」は所有権を否定する為に、資本主義は資本の労働に対する、優越原則を持つ為に、何れも彼は賛成しなかった。

労働者全員が、資本と所有の権利を持つ事、労働と所有の分裂を終わらせる事が、目的であると考えた。

アリスの優れた所は、労働者階級は自己を管理し、自由な人間的活動を行なう為に、教育を通じて、十分成熟した状態に成り得るのだと考えた。

参加は、その保障であると考え、資本主義に於ける、分費により個人の労働力が、共同体の創造的主体となる、と考えた点である。

アリスの提起し作り上げた、協同組合複合体は、労働と所有、企業の資本家、投資、民主的運営管理のシステムについて、人間の尊厳を前面に押し出す事であった。

現実の資本主義、社会主義経済システムの研究を踏まえ乍ら、大胆に労働者階級が、自主管理の責任を請け負えるという、確信に立って進められたものである。

此れは彼が言うように、出発点であり、普遍的モデルではない。しかし、特殊性の中に普遍性が示され得るのである。

云うまでもなく、この伝統は常に、一つの革命でなければあらない、と云うのもその構造自体は、人間的欲望が余にも強く張り付いている者の、諸価値や諸形式に対する否定であるからである。

お金、快楽、名声と権力を愛するに対して、この伝統を云う。

「貧しくあれ、社会の底辺に降りヨ。人々の中で最後の場所を取れ。所有から切り離された者の、悲惨を分かち合え。」

「他人を愛せよ、そして彼らから奉仕を受け、代りに彼らに奉仕せよ。彼らがあなた方を非難する時に抵抗するな。」

「然しながら、あなた方を非難する人達に祈れ、快楽を求めるな。感覚や精神の喜ばせる物事に拘るな。」

「狂気を生み出す、飢えと渇きと暗闇の中に、神を求めよ、キリストの十字架の重荷を、あなた方の上に置け。」

「それは、貧困、服従、キリストの自己放棄であり、それによりあなた方は、魂の平和に出会うのである」。

これは、これまで言われたものの中で、最も完全な革命である。その外の全ての革命は、他者の絶滅を、要求しているからである。

しかしこの革命は、生活の実践的尊重の中で、自分自身を信じるに至る、人の死を要求するのである。

革命は、全てを完全に顛倒させる、変化であると解されている。しかし政治的イデオロギーは、外見上のものは決して変える事は無い。

暴力を燃えたたせ、権力はある党派から、他の党派へと移行する。しかし、爆が消え死者の肉体が全て埋葬された時に、状況は前と変わらないであろう。

即ち、力のある少数者が権力を行使し、自分の利益の為に、その他の者達を搾取しているのだ。それまでと同じ欲望、残酷さ、過度の野心、偽善、貧欲が支配するのである。

従って、人間による革命は、何も変えなかった。人間の不正や不公平を、除去する事の出来る唯一の力は、人間の光たる生活の中に、吾々の参加を更新させる、キリスト教の伝統を励ます力である。

現状の体制に不満の人は、新しい体制を作ろうとして、その体制を促進建設する為の、諸価値の性格や構成について、考察する必要性に見合った力を、少なくとも、持たなければならない。

経済資源以上に、非物質的な資源である、人間の幸福や共成の基礎が、日々、大多数の者に受け入れられている。

自由、正義、振興と発展の選択肢は、物質的な資源の取扱以上に、将来に向けて重要である。尊厳は、食糧倉庫より大事である。

「協同組合主義」とは、その基本的で不可欠な要請に基づき、人間の活動や条件や運営の為に、より上位の諸価値を適用する事である。

社会----ー経済組織の範囲内で、完全な現実性をもって、促進されるものである。そして、各人がその個人的利益を連帯の為に犠牲にする事を、了解する事が大切であり、受け取る事よりも与える決意を、一層固める事が大切である。

我々にとって、如何なる革命も十分でない。革命はある朝、暴力によって全てが発生して、何が起こるかも分らぬま々、従属的な生活を都合よく変革すると云うものでない。

吾々の革命は、高い諸価値を尊敬する事を知って十分で、道徳的なものである。肉体と精神を持った人間の為、限界と偉大さがある。

生活の為に、町や家の為に、現在と未来の為に、吾々は革命を願う。人間は与える者か、与える事を拒否する者、即ち、決して他人に奉仕しようとしない者、何れかである。

吾々は神様ではなく、労働に基礎を置いた革命を、必要としているのである。嘘や虚偽過ちではなく、真実の支援を受け、団結で達成しなければならない。

現状の「消費者の為の消費社会」は単なる物質的な幸福に、吾々を紛れ込ませる。その収支表には、人間は物として記入されており、人格としてではない。

吾々の間での協同組合は、吾々を人格として呼びかけ、支援し参加させる。従って吾々は、その指導性と責任の遂行とによって、吾々の創造的能力をその細胞から、或は、創造的労働の引出して企業を作る。

こうして吾々は、人間の尊厳と共同体の行政とに関連して、経済の新しい変革の活動を強調し、新しい社会---経済体制を作り出す事が出来るのである。

【43 43' 23】

  • 最終更新:2014-06-22 18:12:40

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