第五章

われわれは新しい体制を今すぐ、建設する事を始めなければならない。


利益の必然的な追求は、協同組合主義の目的にとって、大きな危険を孕んでいる。と云うのは利益というものは、搾取の二重の傾向を孕んでいるからである。

即ち、経済事情による価格の上昇に依る、消費者の搾取と社会的な力関係によって、引っ繰り返す場合を除いて、労働者の報酬が生産性に比べて、伸び悩み進む度合いがゆっくりしている事に依る、労働者への搾取である。

かくして、協同組合主義が外面的にも、資本主義的であると謂う非難が起きて来る。例え、内部的にその機能が資本主義的企業とは異なると、してもである。

しかし、資本主義的な仕組みの中では、内部的な機能と外部的なそれを、惹き起こす事は出来ないであろう。内部と外部の関連は、分離できない性質のものである。

資本主義制度は、人々の間の諸関係を必然的に、透明性に欠けたものにしてしまう。その下で経済活動の複雑さは益々不透明になって、白日の下に晒されるべき権力にある者にとっては有利となって来る。

かくして、決定権を持つ権力の集中は、景気の変化に力強く対応する為の、現代的傾向ある。十分な権限を持つ権力だけが、企業を完全に運営する能力があると云われる。

支配権力は、正に他の人々の参加を閉ざす事になる。支配の手順は従順な人物を役職に任命し、出世出来ると仄めかす。

批判精神を示す者、画一任を嫌う者に対しては拒絶、謂う事を聞かない時は追放、個人的に情報の不足の状態に置いたり、訳の分らない情報を与えない事。

企業の利己主義は、個人の利己主義と合わさったものである。

資本家は、労働者が善人であるか、悪人であるかと関係無く市場に従属している。

株式会社を行うのと同じ形式で、革命的労働を行う事は出来ない。

協同組合的で行うべき労働は、何よりも政治的なものであり、経済回復に基礎を置いてはならない。

内部変革の闘争が、其の破壊の為にやるのではなく、より良くする為に行なうのである。

良き思想に対するアリスの準則は、「行動の為の思想」という事であった。彼は自分の反逆心・闘争精神・自由に対する愛を大切にした。

頭と心、規律と分別が時々刻々進歩する正義と真実は、同時に現われないが又、この二つが合体することなく、存在する事も出来ないのである。

誓宅を示した通り、教えるだけでは不十分である。吾々キリスト者が広く掲げている誓宅
の旗が、吾々の怠慢や、現実への取り組みに対する、無関心の言い訳ともなると云われている。

従って、為すべき仕事は、真実と正義に対する我々の愛を表明する事であり、裏付ける事である。

時が流れ、言葉は結局行為を生み出すのだと、アリスは思った。彼は行為無き言葉を好まなかった。

彼は、時間の取られる多くの講習や集会は、お喋りに過ぎないと謂う印象を持った。と云うのもそれらの集りは成すべき事を何も欲しなかったし、知ろうともしなかったからである。

彼はこの分野から身を退き、何が真実で積極的なもの、具体的なものを、モンドラゴンで
実現する為に熱中した。

かくして、1956年に最初の協同組合が誕生するのである。

アリスは理念を社会的に普及するという、教育的努力を勉強サークルや集会・宗教・講話だけに、限定した訳ではなかった。

彼は、あらゆる手段を自分の目的に利用しようとした、嘗ては刊紙の従軍記者であった彼は新聞の力をよく知っていた。

「余り注意を払われていないか、実の処、情報化や教育化に効率的な手段というものがある。それは世論である]

[世論は非常に力と効率のあるもので、殆ど誰もそれを捉えない程の強いものがある。従って世論を適切に創り出さなければならない。」

私達は、各地方に於ける活動・宣伝プランを既に持っております。情報連絡網を作る事が私達の前進を図る為に必要であります。

その組織は地味で真面目であり、且つ少しでも大衆を動かす為の、必要な全てのものを展開する能力が必要です。

或る種の人々の、機嫌を取る事は出来ないと信じています。兎に角、人をペテンに賭けようとする時に、能力を発揮する人達がいる事を、私は経験から知っています。

古い世界は死んだ、新しい世界を創り上げる事が重要なのである。

「ブルジョワ的個人主義は死んだ。」マリタン

「五世紀に渡る歴史は揺らいだ。我々は中世の終わり頃に誕生した、文化の一部分の岐路に立会っているのである」

「それは、文化と産業の時代により破壊されると同時に強調され、構造的に資本主義化され、イデオロギー的には自由主義となり、倫理的にはブルジョア化されたものである。」ムーニエ

アリスは云う、吾々が押し進めている新しい体制を、今すぐ建設する事を始めなければならない。今出来る事を今するのだ。戦いを諦めずやることのみが将来に於いて、現実となる事が出来るのだ。

然し、どのような形態が採用されようとも、それは教育・労働・人間の尊厳に対する認識の基礎の上に据えなければならない。

「或る民族の活動はその気質に合った形で、特定の制度特定の人間性として表われる」アリスは自らをバスクの現実に置いた。より具体的には四十年代・五十年代、モンドラゴンの現実に根拠を置いたのである。」

「人間は自然的存在である。しかしそれは人間的自然と云う存在である。」

西洋文化の伝統的な考えでは、人間は自然の恐怖に於ける至高の存在として、自然からあぶれ出た超越的なものとして捉えられている。その向こうには、神秘的な無限の空間が開かれているのである。-------

人間は自然と神秘の間にあって、部分的には自然から自由であると同時に、縛り付けられている。意志と知性の力に依り、人間の巨大な上昇的力の中で、人間は自然を超越する。------

この考えの中には、ユダヤ---キリスト教の源流ばかりでなく、ギリシャ思想・神話・哲学と云った古典等様々な形で集中に表われている。

カリクレスからニーチェに至る思想の系譜は、人間性を少なからず無視し、価値の最高基準に欠け、動物化した王国へと人間を沈めている。

精神なきより暴力的な存在として、本能がより強権的な法則と云う原則しかない群れが、運命的規則に従うものとしている。

「それ故、アマンズムやナチズムの台頭や開始は、人間精神の尊厳に就いての無理解による。従って、人間の生活やモラルに就いてのその仮説は、純粋に物質的・生物学的なのである」とマリタンは云う。

現代の人格主義は、超越的人間主義を、即ち人間を超越する人間、それ故自らの意志と理性の限界を越える、人間の流派に位置付けている。

各々の人間は絶対に向って開示されており、又人間自体が絶対の存在なのである。人間は歴史の流れの中で起こり得る事の一時的な契機でもなく、人間が吸収されてしまう全体(自然でなく社会)の部分でもない。

「-----人格は如何なる物質的、社会的現実に対しても、又別の如何なる良き理性を持った集団・組織であっても、人間を手段として利用する事は正当化出来ない。キリスト教の教義では、人間は神の内から生れて来たのであり、神自身が人間の自由を尊重するのである。」ムーニエ

マルクス主義は、此の超越的人間の在り方や、人間の絶対的価値を理解してないし、更には否定している。

アリスにとって、人間の尊厳とは本来各人が所有しているものであり、又他人が尊重しなければならないものであり、各人が社会的現実に於いて獲得し、自らに課すべきものであった。人間の尊厳とは目的を獲得する為の基礎に他ならない。

アリスは現実の人間・危機に沈み込んだ「怪物」たる人間、そのように行動しそのように考える人間から出発する。

「吾々が忘れてならないのは、如何なる階級・条件にある人でも尊厳のキラメキに満ちている人は、考慮するに値するし素晴らしいものとして扱うならば、必ずや善意や分別や徳に満ちたものになるだろう。」吾々は、その事を活用しようではないか。

「人間は熊や雲雀のように、単に自然の中での動物と云うばかりではない、人間は又文化的動物でもある。そして人類は、社会文明の進展なくしては維持出来ない。」

即ち人間は、歴史的動物である。文化型又は倫理-----「歴史的形態の多様性が人間を区分するのであり、従って教育の重要性がそこにあるのである。」マリタン

「即ち、吾々は物質革命に対して、精神革命を対抗させているのではない。吾々は精神的なものに基かない、物質革命は存在しないと確信しているのである。」ムーニエ

アリスは、「子供は人である事に到達する為に生れて来たのであり-----子供が自らの運命や性質、無限の可能性を見極める為に、教育と修養はその鍵となるのである。」

「子供たちは自分達の夢を育み、その人生を生きる権利がある。大人達がその事に配慮しなければならない。」

完全に子供たちの為に、投資して仕舞うほど良い使い方はない。後に成って無料診療所や病院に於いて、節約するばかりがお金ではなく、資本や力強い健康な人間の労働力を通じて、生産的になるばかりが、資本の使い方ではない。」

子供が、人生に対して文化の無く、用意もない状態でいる光景は、文明化された社会に於いては、消してしまわなければならない。

アリスが考えている新しい体制とは、労働者階級が自らの責任を、十分に引き受ける事が出来、彼等の活動を組織しようとする、外部の指導を排除したものであり、二重の即ち、道統的転換に技術能力開発の教育的活動を、前提としたものである。

アリスは、時代の外に生きた遅れた「学者」の印象を吾々に与える。

カントからアリスは彼の中心思想、即ち「人間は生まれ乍らに人間なのではない、自らを人間にするのだという事、只、教育を通じてのみ人間は人間になるのだ。(人間)は自らに教育を行う者以外何者でもない」事を得た。

人間性は教育に、より良く形成されると謂う思想を受けた人間と同様、人類は少しづつ人間裁量への努力を行なわねばならない。

世代は、次の世代を教育するのである。教育に依って社会を転換するという、このユートピア的理想に就いての可能な目標に対する回答を、アリスは既に、カントの中に見出していたのである。

恐らく教育は次第に向上し、各世代は人間性の完成に向って、依り接近して行くだろう。恐育とは、人間性の完成の為の大きな秘密が宿っている。

人間性が教育を通じて次第に向上発展し、教育が人間の尊厳を形成すると云うのは、吾々に人類のより幸福な展望を開く。

王家は、其処に所属する者を「只、自分達の目的の為の道具に過ぎない」と見做しているので、国民は国家の教育的権威に臆することなく、自分達の成熟と自由を求めるべきである。

人間の教育者は人間である。

対話を通じて、新しい目標が達成できる。教え乍ら教わるのであって、教わる者も又、教わると同時に教えるのである。

かくして両者がこの過程の主役を交互にみはし、相互に成長し、自主的に討論するのであって、支配するのではない。

協同組合主義者は模範的な労働者であり、仕事をキチンとしなければならない。それは人間として、市民としての成熟を示す為である。

労働は、神による罰ではなく、神から人間に与えられた確認であり、労働する事に依り神の協力者となるのである。労働は人間を主体にさせる労働の中にこそ、人間の本質が見出されるのである。そこで人間は自分自身を発見し、発展させ人間になるのである。

結論として吾々は、尊厳や教育や労働が彼自身の中で、バラバラにごた混ぜになっているのではなく、良かれ悪しかれ、一つの運命体として、一緒になっている事に気が付く。

この人間的秩序の三つの要素は、一つだけ主張されるのではなく、相互に浸透し合い、形成し合うのである。人間の尊厳は生成するのであり、自らをつくるのである。人間的本性は後天的なものである。

協同組合運動は、人間性に関して真の平等を目指して、家父長的支配や慈善に反対して、経済生活上の弱者の為に、人間自身が自らの為に自己の運命を握るという事(自助)である。

企業家としての機能を引受ける為に、必要な責任を取る事であり、連帯する事であり、共同目的に対して、共同行動する事である。

(一人は万人の為に)であり、相互扶助(万人は一人の為に)であり、社会的公正(効率的交換活動、共同活動の成果の再分配)である。

これらの推進事項が、企業形態の論理的要請に結合され、協同組合の独自性を成す原則や規範を示すものになっている。

勤労者大衆を解放する為には、協同組合を国民的規模にまで、発展させなければならないし、従って、国民的資金でそれを育成しなければならない。

社会的生産と広範な調和の取れた、協同労働の体制に移行させる為には、全体としての変革が
必要不可欠である。

この変革は、社会の組織化された力の使用なしには、達成されないであろう。それ故、国家権力を資本家や地主の手から奪い取る事は、生産者自らに成さねばならない。

協同組合運動の本質的な民主的性格は、制度上の上部構造に一致する限り、他の形態との共存を受入れるものであり、それ故、此の政治的綱領を通じて、この運動は財政手段及び他の資産の、法律的平等を獲得出来るだろう。

協同組合主義は良心の新しい状態、一言で云えば文化を権力の人間化や、経済の民主化や連帯を通じて、特権階級の形成を阻む事に依って、作り出そうとするものである。其処では職能的評価は意義があるのである。

「彼等に依れば、協同組合は資本主義に敵対する為の、有効性は殆んどないし、幅広い政治的保護を受けて、他の形態を取る事も出来ない。」

「協同組合は支配権力に操られており、今日協同組合の発展が黙認されているのは、協同組合は力を欠いている事が、知られている事からくる純粋な譲歩としてそうなるのであるという」

「更に、部分的改良という方法で解決することが不可能であり、全体的改革や生活の新しい哲学が必要である、と彼等は考えている。」

更に、協同組合は新たな「労働貴族」「腐敗者」を生み出し、それが階級の敵対的利害の衝突に依る、資本主義の解体過程を遅らせている。ーーーー彼等は考えている。

協同組合主義が「凡俗大衆の資本主義」であると云われる事を彼は否定する。しかし、多くの協同組合がそれに相応しい精神に欠け、自らを「労働者」と見做さず、資本家に敵対する事無く、管理業務に於ける責任や義務を負わない、支離滅裂さを彼は非難したのである。

協同組合主義の変革努力は、その目的使命に見られるように、奇を衒った方式に依るのではなく、組合員の精神と労働階級の諸組織と団結に変革者としての、協同組合の実践形態に拠っているのである。

協同組合主義者は、目立ちたがり屋ではない、彼等は不動産も買わないし、リクリエーションや旅行もしないし贅沢もしない。彼等の子供たちは組合の学校で教育を受け、主婦達は、宝石や贅沢な着物で身を飾る事はしない。

アリスを激昂させたと思われる異論は、協同組合主義は「資本主義が、自分の利益を守る為に役立ち、勤労者階級の利益擁護には、役立たない道具である。」というものであった。

彼は云う「吾々協同組合の推進者達が、ドラ息子や旦那衆やお喋り屋達だとか、緊張の中で生きなければならぬ事を知り、どんな権力者に対しても避けて暮らす事は出来ない。」という事あった。

協同組合が資本主義に対抗して、闘争する方法だと云うならば、<闘争に負けても>もう存在する事はやめている筈だ、という短絡した確信しかない。

もし、誰かがその議論に従う時には、その事を納得するのに専門家である必要がないと謂い募るのである。

個人的には、私は協同組合が、勝利するとは信じないと云うのも、資本主義のくびきの下では、協同組合に依る自治は不可能であるし、労働者の生活様式の如何なる根本的な変更も、不可能であるからである。

実際、資本主義が継続する限り、協同組合は市場経済及び競争に強いられて、資本主義的企業鵜が行っている、嫌悪すべき行為と同じ行為を、協同組合の労働者に強いる事を、余儀なくさせられる。

若し、そうしないならば協同組合は、市場から排除され崩壊するであろう。資本主義の嫌悪すべき行動が問題である。

資本主義が発達するにつれて、労働の搾取の形態も又、競争の圧力の下合理化され、洗練された機械化・半自動化生産に於ける連動化が一般化した。

この過程の最後に於いて労働者は、自分達を抑圧する技術と労働用具いう、二つの劣悪な機械の結合の中の、惨めな鎖の環にしか過ぎない。

其の労働用具は、人間に労働のリズムと実行すべき、あらゆる運動を強いる。技術の方はこれまた抑圧的しかないが、位階や秩序、管理、罰則等を伴った、社会的機械なのである。

此の無気力に陥れる労働が蔓延し、労働者の人間性を無視否定し、更には労働者の全生活を壊す事を考えれば、多くの労働者は労働を自己に敵対するもの、又は労働を費やした時間と生活にとっての損失を考えるのは驚くに当らない。

つまり社会主義が、大幅に労働時間を減らす事が出来てこそ、社会主義企業に於いて、自主管理がが可能となるのである。

その時こそ会社労働者は、哲学や人間や社会に関わる科学を十分に組み入れて、選択する事が出来、自ら、その日常生活に関わる諸問題得を分析し、決定する能力を持つことが出来る。

従って、協同組合企業で実施される労働は、現実に資本主義企業で実施される労働と同じ位、疎外された労働である。

この退屈な賃金労働に対する償いは、即ちそれに対応した消費水準は、資本主義企業に似たものである。従って何処に協同組合というものがあるか。「アリゴリ」

時代が不確実になると、動揺する人間は益々悪い方向行くが、頑固にその目的を保持しようとする者は、世界を変える。

良心と自由と正義に基づく妥協を、協同組合主義者は拡大を以って、一致させなければならない。即ち愛及び自由と正義よる妥協は、他人に対して実証可能な成すように強制しないし、それ以上に協同組合主義者を、今は世界が必要としていない社会的・経済的・革新や変革の主人公としての権利を得る為に、権威付けるものではない。

企業を安定させる本質的な活動は、販売活動である。そして活気のある人物困難を厭わない人物が必要とされる。

職業上の困難や苦労を逃げる為に、精神病学的な鎧を必要とするような、精神的な不完全さに機能上陥ってはならない。

向うを知らんと欲する者は、行動せよ。行動すればその時こそ、吾々は真に他人と節度ある関係になるのである。

アリスは、モンドラゴン協同組合は、天国であるとかそう謂う風であるとか、見せ掛ける事に同意しなかった。その運動に参加して以来彼は誰に対しても、完全な人間である事を要求しなかった。只、単に貢献と協同を要求しただけなのである。

協同組合の規律も、又強制ではない。何故ならその公式・形成発展は等しく、全ての者の責任であり、「ワイシャツとカラー」や脳と心臓のように、他人を尊重しつ々責任を引受ける事を、全ての人々はそこに見出す」のである。

協同組合の憲法は、完全な参加と民主主義である。その「組合定款」でも「内規」でもその基本精神に背く事は出来ない。特赦に何の留保もない。只自由に適用され、組織的に共同した決定の効果は、多かれ少なかれ従うと云う、不可欠な規則があるのみである。

誰でも自由な社会的決定や、民主的な適用に於いて、当惑感を持たせられてはならない。又判決や破門に、晒されるような事があってはならない。

共生と共存を重視する為に、規準化は不可欠である。それなしには規則で定められた以上に、共生共存が先に進まない。

民主主義制度のような、差し当って最良の制度によって、人間関係の制度の擁護や支援を、共同で適用する事だ。

これらの条件整備に、本当の意味を与える事が出来るならば、吾々の協同組合は、民主的で社会的な憲法を持つ事になるだろう。

誰も無援助を嘆く事は出来ない、歎きは忽ち吾々を行動上の妥協に導く。如何なる行動でも、人間は団結や連帯の印を付けているならば、悪いものでも賤しむべきものでもない。

現存の協同組合は、始めから今日あるような、人間集団ではなかったし、現在進行中のプロラムをもっていた訳でもなかった。

協同組合を作る中で、労働と団結は誕生した。その内容は、時代の流れに適応した要求を調整しようとするものであった。

誰も自ら少し、分け持たねばならない事柄から生ずる、困難さを見限ってはならない。もし、そうなるとすれば、それは、労働能力上の技術専門性の不足に、問題があるのである。

問題は、全員やそれらを十分に持っている、各人にあるのではなく、それらの力を出来る限り、集中させる仕方に、問題があるのである。

とりわけ最大の困難は、各人に押し付ける事無く、必要性を公式付ける事であり、共同の同意を得る事であり、効率的に共同の有用性を進める事である。

資本主義体制は、本質的に市場経済であり、生産手段の私的専有を強いるものである。各企業には、事実上国家の経済政策に、全面的に刺激されながら、自己利益の為の決断を集中する。

利益追求は例え、目的でないとしても、資本主義的企業の原動力であったし、在り続ける。利益は単に、企業家の些細な競争の場合でも、実際、生に生じている企業を維持しようとする。

企業家は、資本主義制度の中で利益を引出すという、最大利益の為の努力をしなくてはならず、生き残りの不可欠の要素としての奇跡を追求する。

資本主義制度は、人々の間の諸関係を必然的に、透明性に欠けたものにしてしまう。その下で経済活動の複雑さは、益々不透明になって、白日の下に晒されるべき、権力にある者にとっては、有利となって来る。

原則のない自由は、不当に権力者を好み、弱者や他人と戦うのに、何の資産ももたない。貧乏人、常に貧困に依って打ちのめされ、支配されている人々を抑圧する。

この自由主義は疑いもなく、現代の社会的危機の、最も深刻な原因の一つである。世界と二つのグループに分割されている一方に、最低限必要な物差しを欠いている、巨大なプロレタリア大衆が居る。他方に、これ等の大衆を搾取し、全ての富を蓄積している、特権的なグループが居る。

階級闘争を克服しようとして、民主主義や全体主義が、失敗した各種の経験を見て、闘争を克服する為には、第三の道を探究するしか解決策が無い。

カトリックの教義は、階級の不平等を擁護しながら、一方で階級闘争を非難している。しかも全ての人々の機会均等や、富の公正な分配は、守れと云っているのである。

労働の中には、個人的な運命や、個人的利益以上のものがある事を、解ってもらう必要がある。連帯は人々を団結させ、労働をあらゆる意味で、解放の力に変換する。

儲け願望が、労働の諸力の構造や発展の主動になる時、吾々は労働から栄光の銘板を剥ぎとっているのである。従って此の状況下では、諸階級の闘争と人間間の闘争は不可避である。

アリスは、特技の不正と戦ったばかりでなく、社会が一体となり、より良く発展して行く為には、特権は有害なものだと考えた。

企業家や行政等の重要な地位に居る人々のブロックは、責任の立場にあるが、其の本来の機能を果たして居らず、寧ろ其の立場を家族や政党や圧力団体と云った、外部からの要求の為に使っている。

階級無き社会は単なる夢なのか、人々は職業や年齢や周囲の活動を越えて、相互に成長するより、豊かな人間の「共同性」の経験を、生きる事を嘆く事なく、決心しなければならない。

(そのあるべき状態ではなく、その固執する所によって差別する)階級の闘争の概念は、吾々には釣り合わない。

即ち、一方の極に喜びの無い、不活発な自分達の運命を諦めていて、彼等から学んだり、その活力を見習える人達との関係も無い、退職者や老人世代がある。

他方の極みには、競争や無慈悲な闘争の為に、武装した生活の中に引きこまれるべく、運命付けられている若い世代がいる。

そして、中間に人々と共同する代わりに、物事を単に享受するだけで、存在するよう罰せられ限られた少ない時間だけで、自らを維持しなければならない様な人々がいる。

労働者の活動及び、解放の展望に於て、アリスは文化的な差異が、階級の差異の第一歩の基本要素であり、克服すべき第一の障害であると判断した。とは言え、文化以外の問題で基本的な原因が、究極の新経済である事を認めていた。

我々の前にある、社会に於ける最も悲しい遺産は、教育や訓練の欠如であり、経済的な不平等であろう。

経済の不平等の解決がその基盤に於いて、教育や文化の社会的不平等の解決と一致しない場合、社会生活の進展にはならないし、更に、社会生活は自動的に消滅してしまう。

今日、広範な特権を享受している経済的不平等と、文化や教育の機会に於ける排他主義は、人間社会を協同の連帯や、兄弟愛的展望もなく、閉じられたカースト制度や、階級敵対へと追い遣るものである。

従って、現代の要請に対してより調和した、社会的規則社会の中で、不可欠な進歩を形にしなければならない。

社会的規則も文化の社会化である。そうなのである、親愛なるモンドラゴンの皆さん、文化の社会化は、階級の此れ等の障害を取り除き、吾々社会の特権層の独占を緩和させ、解消させる為に、不可欠な何よりの手段なのである。

本来の意味で言えば、富の社会化よりもズッと重要であり、興味深いものである。富が社会的に誰かに横領されていようとも、文化の社会化の改革が、先づ第一に行なわれていなければ受用性を持たない。

「学校が解説される度に、監獄が一つ閉鎖される」と、以前ある有名な労働運動者が言った。しかし、文化や簡素な教育の為の学校が開設される事が、監獄が不要なものとして、自動的に閉鎖されてしまう事になると考える。

然し、我々はそれ程単純ではない、だから我々が各教育施設の準備を始め、人々や十四歳か二十歳の未熟な青年に向け開始すれば、学校は克服すべき社会的構成の為の新しい陣地となる。

プロレタリア大衆を訓練し、組織し、意識的なそれ故健全で自由な社会に於いて、自らの運命のとなる人民に変革する陣地となる事は確実である。

人が働く社会の中で、保障制度を受ける権利を持っている者も、又何等かの理由で働く事の出来ない者も、又共同体の社会保障を受けられる事が出来る。

他人の援助を必要としない者は、誰もいない事を忘れずに、各人がその持つものを各々に与える事を、正にその目的として共同体が組織される事が、共生と相合尊重の中で生活の可能性として、我々に保障されるものならば、結局誰も誰も何も失なわないであろう。

恐らく、この種の発展の可能性については、我々は余り信を置いていない。然し乍ら、今日確信出来る事は、生活のこれらの社会的条件を、想像する為の努力を行う事である。さもなければ、我々の文明は台無しになるだろう。

我々は、決然とこれ等の条件を創造する所まで前進するか、それとも武力によって容易に抑え付けられてしまうなど、考えてもみない革命に巻き込まれるのか、これらの条件は公正の精神・平等・真実に対し、影響を与える物であり、戦車の壁によっては抑え付ける事のできないものである。

アリスの考えの中では、階級闘争は最小の役割しか果たさず、実践上欠落している。彼の基本的概念は、全く逆のもの、即ち協力だからである。それは、階級の協力・人民の協力・全体的協力である。

これらは、彼の人間観・人間性の見地に基づくものと思われる。然るに人間性は、連帯的な労働と固く結び付いており、其の完成への最終目標へと歩むものである。

人間性の偉大さは、団結と労働の連帯・精神に根差すものである。階級的闘争はアリスの目には、人間性の本来性に対立するものとして、見えたのである。

権威や理念などの喪失と、その喪失の諸側面は、団結や秩序喪失や社会的分裂を齎し、混乱へと導いた人間性は解体し、従って各種グループ階級・国々と互いに分解し、文明の危機、人間性自体の危機にまで進んだ。

従って、団結と協力こそが、人間性が自由で公正な新しい秩序を再建する為に、必要なものである。

吾々の力は、闘争に向けられるのではなく、協同に向けられるのである。

協同は、真の公正や社会的平和へ、到達する事の出来る、唯一の道を示している。此の道に依って、自分の歩みを正しくする事の出来ない個人や集団は、時間を失うばかりか、大抵は喪失や破滅にしか出会わないのである。

吾々は互に必要とし合っている。相互に補完し合うものとして、吾々は呼び合っているのである。孤独に耐える力ある者は、神か動物である。

人民と諸権力は分離してはならない、諸制度は相互援助を行わなければらない。諸権力が、大目標を決意するだけでは十分ではない。

其れは、到達点以上のものを必要とし、下に従う者の熱であり、熱心さであり熱意である。この統合を又自主的で寛大な協力を、達成出来ないでいる所には、本来的に社会生活はないし、その範囲に於いて、社会的に豊かになる事は難しい。

その平和は見せ掛けであり虚構である。そして、吾々の全ての我が共同財産の獲得の為に向けられた、真の共同体の建設の為に、相互の範囲の中で、役務と感情を相互に一致させて、共生して行かなければならない。

その中に、正に人間の社会性が成立するのである。忘れてならないのは、共同の為に献身する事は、共同体の充足にも合致することである。給料を消費でなく、投資に振り向ける事である。

労働者は、仲間の解雇程、労働紛争に対しては、非常に感情的になる。しかし、一方別の労働者は、解決策を示したり、自分達の代表を確保する。

能力は、余りない労働者の代表達は、企業家連に対して、労働者の回復を要求する責務があるが、多くの者がその責務を果たせず、必然的に、その諸成果に制限されたものになる。

労働人民金庫は、一部門から他部門へと、幾つかの共同体から他協同体へと、或る人々から他の人々へと、世代から世代へと導く、人間連帯の成果である。

アリスは、平等主義を不公正・非社会的・非連帯的・非効率的なものとして反対した。平等主義は例え、公正に見ようとも不公正である。

何故ならば、平等主義は能力や才能に於いて、本質的に差異がある。人間の存在を前提としているからである。

平等主義は、又、非連続的であると云うのも、連続とは、集団的に協同に参加する者の為のものであって、単なる個人的な利害の寄せ集めや、単なる付け足しでなく、豊かでダイナミックな、相乗的で有望な、新しい力の創造であるからである。

人間の善意の問題ではない、それ以上の事が必要なのである。

忘れてならないのは、効率の、法則の不可決な認識を必要とする管理の中で、自由や参加を全員が享受する事である。

格差が明確に在る制度を、吾々は受け入れなければならない。そうでなければ緊張の無い天国と云う、無意識的な誤りを犯し、現実によりそれが非現実なものとして、暴露されるであろう。

無法な不平等、特権階級の為の教義として生じた、道徳律や歴史的専横の果実・余剰価値の蓄積を獲得する、諸規則を傷付ける全ての不快なものを守る事なしには、平等主義者に基本的な哲学を守る事は出来ない。

実戦的には、人間は労働を通じて、自分自身の為に尽くし、個人の為にも尽くす。

或る時代に実現された多くの事柄は、良い理念や計画があったからである事を、歴史的経験は吾々に教えている。理念や計画は人々を実行に駆り立て、現実のものに変える.

ユートピアはしばしば、無駄口・観念論・修辞学・神学等の概念が混ぜ合わさったものであった。吾々全てが陥りがちな最悪の幻想は、単なる言葉に酔ってしまう事である。此の危険は現実に起こり得る。

人間にとっての理想は、出来る限り全てを推進し深める、変革の過程を導くものでなければならない、と謂う事である。其れは人間的諸価値を抑圧したり、留保したりするものであってはならない、と謂う事である。

アリスは、「修辞的表現」や「希望的教条主義」を、利益よりも危険を齎すものを取り分けて、混乱しか齎さないものとして嫌った。

何処にそれがあるのか、何によって前提とされるのか、何処から来てくるのか、何処へ行こうとしているのか、どのような手段で進もうとするのか、どのような方法が利用されなければならないのか、逆により合理的な条件や関係や、共存に必要である不可欠な基礎が、ユートピアに欠けている。

彼は多くの、ユートピア主義者達の進歩的精神を、信じようとはしなかった。

しばしば多くの公式や、見せ掛けが基本的に、保守主義である進歩主義者や、革命派の外観を以て現れる事がある。外見上、非常によい多くの公式に就いての、曖昧さや偽りを消す為には、事実に依って裏書きしなければならない。

アリスは、観念論に捉われた精神を嫌った。ユートピアは閉じられた輪の中で、成立するものであり、協同組合運動にとって、危険なものを生む・・・・・・と。

協同組合の中では、地下組織や秘密グループは必要としない。

我々は、生活実態とぶつかる理念の為に自分達が疎外されたり、又は疎外したりする事はない我々を分裂させる理念と、又我々に団結共存させる生活実体とならば、我々は生活の方に留まる。その為に、観念論も単なるユートピアも拒否する。

知識なしには、旨く生活する事は出来ないし、行為なしでも同様である。吾々に最も必要な事は、生活を改善する為の方策について、吾々が知っている以上に、何かをする事である。

吾々には、行為と思考は同量に与えられている。お喋りと議論をし、現実に純粋な理論と比較するだけで、考えたり行動したりしようとしない者とは、我々は、全く異なり区別されるものである。

ユートピアは、その主張者が人間についての夢を、強制しようとするならば、公衆の希望に反して、反動的なものになると謂うことである。

不確かな将来に於いて、人間を良くする事が出来ると云う口実で、現在の人間的価値を保留する事は出来ない。

自由や尊厳、参加を保留させ、吾々の全てを委ねる事を要求したり、強制したりし始めるのは、革命や変革ではないし、成り得ない。

それらは、人間的価値を回復すると約束しているが、そのようにしないと云う、疑問を消え去る事は出来ない。

アリスは、社会の突発的な変革を信じていなかった。何故ならば、全ての変革は意識的なものであり、人間の変革であり、忍耐強い地味な仕事が要求される事を、彼はよく知っていたからである。

「人間が、自分自身を実現し、自分の希望と満足を与える為には、時代が、仲間を配慮する事なしには、出来なかった事は、変わらない・・・歴史である。」

時代と連帯は、人間の向上と社会の変革にとって、単なる偶然的なものではなく、基本的な要素である。刈り入れが出来るように種を蒔き、準備をしなければならない。

アリスは、ユートピアを無理矢理強制しようとする人に、不信を持ったばかりでなく、多くのユートピア暴力と改善性を持っている事を嫌った。

疑いも無く、暴力の原因の一つは現実の単純化である。どの位の狂気が形式的に理念や認識を、蝕んでいるか見当が付かない。

アリスは、完全な解決と謂うものを信じていなかった。と云うのも第一に複雑な問題に対して、単純な解決と謂うものは無いからである。

「生活の中に一つの問題もないと、信じているような者は、間違っているのである。生活とは問題が、綴れ織りに成っているものである。」

だからユートピア主義者は、複雑な問題に対して、単純な解決をいつも考えている者なのである。

安定した世界は、人間的な世界ではない。

アリスは、人間の生命があらゆる意味で、神聖なものであると謂う、キリスト教の概念を認めていた。

救済は、暴力的方法や強力に在っては見出せない、武器で殺す者は武器で死ぬ、と諺にもある。暴力の道は、困難を解決する事にはならず、其れを益々深いものにしてしまう。

精々起きる事は、権力の位置が変わる事であり、それ故蓋が柄になり、柄が蓋になるの類である。自由は意識から生み出される。決して、外部から与えられるものではない。自由は団結と労働から生れる。

アリスは、大げさな英雄的態度は好まない、と述べた。彼は労働と文化や教育を好んだ。「結局死ぬ事も、又、人生の法則である、然し、殺す事はそうではない。命は神のみが司る事が出来るのだ。」

個人の教育にとって、その社会の教育が必要である。吾々の協同組合は、決心と大胆さを以て、新しい道を前進しなければならない。

即ち、責任と質量の伴なった資産を適用して、計画の実用化に向けて、取り組む力を持たなければならない。

大衆は騒がしい、指導者達は忍耐する。吾々は彼らに仕事の大切さと謂う、真面目な教訓を与えなければならない。

仕事は、協同組合の新しい地位を保証するもであり、基本的に教育、支援、経済、財政、技術、科学の変化・変革を迫るものである。

「権力に到達する方法は、その運動の形式を決定する」。吾々は、民主主義と自由を勝ちとるものとしても捉えている。

吾々は、時間を活動に不可欠な要素として、又、力を即ち第一に理性の力を重視する。理性の力が不十分な結果を齎す場合、吾々は更に力の理性を評価する。

アリスは、攻撃性と暴力は同じでないと区別していた。攻撃性を認め暴力には反対していた。

人間の特別な優越性は、その本能ではなく、その知性と意志が支配しているといふ、その生活環境の完全化や変革を、目指すところにある。

協同は、人間同士の完全な、相互の役務・提供を要請し、回答を得る手続きである。関係や共存が他の方向へ行く、否定的な傾向は、原始主義に戻る事でしかない。文明化されていない自然へ戻る事でしかない。

          ( 暴力イコール本能、理性イコール闘争)

吾々の国は、余り豊かでない土地の中にあり、文明社会の隅っこで、種々の制約関係の中にある。

従って、自分達の土地を豊かにする為には、「労働」しかないし、又凋吝な人口を考ン性を慮に入れれば、生活空間を推進する為には、「協同」の他よい方法はない。

「労働の協同体」即ち「協同組合企業」は正しい在り方であったし、私達、人民の暮らしを活発にし、地元の全ての人々が必要とする、自由や他の人々の「信頼」を拡大した。

協同は、自由や公正に影響を与え、又、連帯いあると労働をも集中発展させた。此の事は一層広い範囲に交換と福利を押し進めた。

アリスの社会的概念は、暴力に対する、代案の探求であった。

生き々々した力とは、結局のところ、革新とエネルギーの源泉であり、労働の範囲内に成立するものである。

平和と幸福は真近ある。然し、それを推進する為には、吾々は各人からもっと未来に向けて、取り組む事を知らなければならない。

現在に於いて、もっと吾々の注意と感性の領域を、広げなければならない。吾々は隠された憎しみや、暴力の噴出を終わらせると謂う困難を克服せずに、快適な向上を計る事は出来ない。

現実の状況や現在の世界では、空間は縮まり、時間は短縮されている、という事から来る問題を、引受けなければならない。

暴力や宣伝の中心は、益々広がり世界的となり、平和を作り出そうとする者や、福利を推進する者達が、活発に行うための連帯が、益々必要である。

彼の批判は、常に社会的変革に抵抗しようとする、反動的暴力に向けられた。

吾々は、妄想的理想主義により行動しない。吾々は、リアリストである。吾々は、出来る事と出来ない事を判別している。変える事の出来そうな事柄に集中するのである。ーーーー

個人や社会階層の段階でも、実体的に不公正な社会主義を、吾々が互いに持っているとすれば、革命や反暴力は吾々にとって、否認すべき現象ではないし、軽視すべきでもない。

事実、暴力か非暴力かの選択について、キリスト教者は、矛盾となる選択に必ずぶつかる。即ち、もし暴力を選ぶとすれば、キリストの愛に反する事になろうし、もし非暴力を選ぶとすれば、正義に反する事になろう。と云うのも根本的には非暴力を、不公正を支える事になるからである。

この矛盾した選択を前にして、吾々は誠実さを選択する。実体的な価値や必要な力が捨てられたり、間違った評価を受けたり、さもない道を吾々は選択する。

其れは、自由と連帯であり、労働と団結であり、吾々が吸っている空気のように、必要なものである。

誠実さは、吾々に革命的な任務と、非暴力の責務を強いる積極的な姿勢が、力の最大の集中に向けて、開かれた改革推進を含み、又、経済と社会の同時的発展の連続的・進歩的目的をより保証するものではないか。

現実の意識の獲得は、諸力を発揮する為の理論と同じく不可欠である。特定の意識的な少数者ばかりでなく、多くの意識的な少数者が、吾々の人民の中に入る。

「信仰は、実存の心臓である」「善と悪は対になったものであり」従って、進歩と変革の道に於いては、「忘れる事」と「許す事」をもって、全てを実行すると謂う事を知らなければならない。

確かな事は、悪は伝染病であり、善は拡散的であるという事だ。幸いな事に人間の心により望ましいものは、愛・平和・理解力と団結である。

それらの全ては、吾々の為に変化し、実践の現場で「連帯強固」の活動に於いて変化する。

人間の行動は、「真実と虚偽の混在」の中で発展する。「歴史は純粋なものではないし、暗闇である。歴史は善と悪が混ざり合ったものであり、善より悪が多いものである。」

「不孝な人間の歴史は、非常に神秘的な救済へと向かっている。そして歴史の中では、悪と悪い手段を通じて進歩が善へ向かう。」これは、歴史の悲劇的でかつ、希望的な展開である。

キリスト者の最悪の苦悩は、将に、恐ろしい手段によって、正義がなされ得る、と謂う事を知る事である。

然し、キリスト者の独自の任務は、現実の、制度の歴史的解体を目指す事にあり「高潔な協同によって、吾々がその中で取り組んでいる世界を、人間的な公正な世界に変える事である」。

協同の精神のみが、暴力も強制も無い平和な共生を、人間に保証する制度を齎すのである。所が、時と場所も考慮に入れずに、不可能な事を執拗に願う者達が、抵抗力を示す一つの局面の中に、吾々は生きている。

とりわけ、共同の幸福の為に阻止し、遅らせようとする者達がいる。此処に互いに疎遠な青年と大人、進歩派と保守派、更に、可能性と向上心の意識を持とうとしない者の、全てが参加する二つの局面がある。

アリスにとって、ユートピア・平等主義・主題は、抽象的で理論的な問題としてではなく、協同組合に直接的な影響を与える問題として、常に捉えられていた。

これらの、問題の一般大衆の前にではなく、具体的に協同組合の労働者に対して、協同組合の将来を危険に陥入れ、干渉を行う批判者や扇動者に対抗すべく、問題として捉えられた。

アリスは個人的には、平均的・民主的社会変革に賛成しており、その可能性を確信していた。

「革命しよう、前進し未来へ向けて、例え将来の発展を目指す企業も、社会主義的であれ。新自由主義であろうとも、吾々の企業モデルが、将来の企業を特徴付ける事が出来る、基本的なものにしよう」。

理想そのものに就いては、問題はないものである。然し、理想を実行する為の方法に就いてはそうではない。此の点から最大限、民主主義者とプラグマティス、又はリアリスリスの間には、相容れないものがある。

理想には、実行可能な善を行うことであり、夢想を実行する事ではない。地面にシッカリと足を付ける事である。

心しなければならない事は、大問題を解決する為の形式の一つは、その都度、一つの必要な事に取り組み、解決する事である。

リアリストやプラグマチストである事は、理想を捨てる事ではないし、妄想と美しい夢を混同する事でもなく、対象をを実現する為に受け入れる事である。

原則への確信と忠実さは、変革や現実の転換を目指すにつれて、凡ゆる種類の、抵抗や反対に躓くかも知れない道徳にとって、強固な基礎となる。

吾々の経験は、犠牲と困難に満ちた、一つの企業の実行であり、それ故、異論を超えて、協同組合に参加する事を選択し、個人の利益や好条件や家族預金まで、危険に晒されての実行であると、この状況の下で、理想主義とリアリズムとが必要とされる。

「動揺しながら生きていく事も出来る、然し、大衆的な姿勢を欠いて、動揺する事や実現の為の力を必要としている所で、動揺する事は許されない」。

理想は、吾々に二つの要素、即ち時間の要素と、あるがままの人間への尊厳を、忘れさせるものではない。

存在しない理想的人間を基にして、未来を作る事は出来ないが、発展を目指して具体的行為に参加する、具体的人間から出発する事は出来る。

協同組合主義は、自由と社会正義の為の闘争に添って、「近い将来凡ゆる分野で、例え否定的な側面や、色々な側面を逃れなかったとしても、人間のエネルギーの大きな解放と、人間の向上を、決意するものである。」

「プロレタリアートの経済的潜在力を通じて、その目的を進めるものである。その為に「人間をあるがままに、その欠点も疎外も受け入れ、経済的であり、教育も必要とする運動に、人間の全ての力を動かして行く。」

「人間的価値、倫理、道徳の励ましに依って、活動の方向付けをして、責任と全体的な参加を示す、その共同体の統合を進めるのである」。

結局、人間を信頼する事。人間は自己を実現するものであり、感性や合理性を持たない人間の不十分性や、無力を克服する為に、仲間を信頼する事である。

此の事は、一方では連帯の楽しい義務や、努力の合理的な活用、必然性の洞察などを、保障するものである。

時間は、普遍的に価値のある概念であり、進歩や、創造的取り組みの為に、個人や人々の中に具体化する、変化や変革の為に必要なものである。

事物を変える事が問題ではなく、人間が変わる事が大事なのである。

種蒔きなくして収穫なし、自然発生からは何も生まれない。

夢想は、美しいものであるが、現実に道を譲らなければならない。吾々は、そうあるべき事物1からではなく、あるがままの事実から、出発しなければならない。

未来と時間は、考慮すべき生きた空間の中にある。社会的約束の中で課せられた吾々任務は、英雄や聖人が行うような事を、実行する事ではなくて、時間の経過の中で、誠実さや相互の配慮を維持することである。

豊かな生活の恩寵は、他人の手から単なる贈り物として、造りだされるのではない。吾々は、それを獲得する為に、全員が参画しなければならない。

個人的社会的な変化と変革は、準備を能くして、行うものでなければならず、努力と犠牲なくしては、成し遂げられない。

吾々の生活向上の為の取り組みは、そのように、常に一から十へ行くのでなければならない。と云うのも大抵は、十から一に向かい、そして消えてしまうからである。

従って吾々の計画は、全ての計画と同様、真面目な人を誑かすのではなく、参加を約束するのであり、全ての人が参加し、共同事業や命令や管理に、参加出来るようにする事である。だから吾々は常に主人公であり、いつでも民主々義者なのである。

「少しづつ前進する、しかし休みなく」「一歩づつ、止まる事無く」。

協同組合は例え、差し当たって控え目な現状であろうと、拡大する地平と複雑性を含んでおり、教育訓練の分野や、経済・財政の分野に於て拡大し、自由や正義や進歩の深い愛を以って、人間や共同体や人民の向上を、拡大する可能性を持っている。

吾々は、「他者批判」よりも自己批判によって、前進しよう。吾々は、高い目標や計画に取り組み、全てを多くても少なくても、皆で分け合おう。

進歩の為には問題に立ち向かい、常識を以って要求を満たさなければならない。即ち、進歩する事に吾々が分別を持つ事であり、如何なる場合にも常識を無視してはならない。

協同組合主義者は、市場の為に生産しなければならない。その為に全てを市場の要求に、合わせなければならない。

即ち、品質の確保、費用、顧客を満足させる商品、其の為吾々は筋肉を動かしたり、時間を掛けたり、最大の注意力を傾けたりするだけでは、不十分である。

吾々に必要なのは、労働用具や施設が十分なものであり、労働の在り方、市場が強制する生産性に見合っているものである事、時宜に合った商品を用意する為に、必要な資本を確保する事である。

又、幅広い要求を持つ顧客に、商品を提供する事。吾々が予測能力を持つ事などが、必要で在る。即ち、吾々は労働に於いては、仲間的・兄弟的集団とは違った企業なのであり、企業としての危険に方策を持つのである。

吾々は、この現実から出発しなければならない。吾々の現実は協同組合であり、企業であるという事である。

更に云えば、協同組合企業であるという事である。吾々は吾々の人間の精神や、連帯の精神を失う事無く、あらゆる意味で、富裕にならなければならない。

或る地域の地方、具体的な国を良くしなければならない。より直接的には、吾々の発展に必要な生活条件を、向上させなければならない。

この具体的な現実から出発して、可能性を追求し、現実を前進させる。経済と社会は現在と未来のように、切り離せないものである。

組織や運動、グループの形式を理想化する事に、往々にして成り易いので、気を付けなければならない。

組織が、人間の為に成るようにする為には、組織が完全で理想的ある事ではなくて、組織が前進して行く為に、機能的であり正確である事。人々に、活動の可能性と分野を与える事が出来る事である。

「現実と共、に生きて行かなくてはならない、天国を見だすのでもなく、天国に在ると謂う感覚を見出す為に、変革するのでもない。」人間は制度の基礎であり、その逆ではない。

「鍵は協同組合にあるのではなく、協同組合主義者にあるのである。又民主主義者にあるのではなく、民主主義者にあるのである。理念にあるのではなく、生活にあるのである」。

協同組合が、理想的な性格であると思い込む事は、現実を誤る事になろう。組合に緊張や矛盾・合意や一致が存するのが、正常なのである。

吾々、協同組合主義者が考える新しい社会秩序は、少しずつしか現実化出来ない。吾々は現実に留意し、全力でそれを変更し、その為に吾々の全ての力と財を確保し、それを差し向けなければならない。

「凱旋主義より現実主義、お喋りよりも多くの事実、予言者よりも言葉を護る人間、幻想よりも実践。」

「良い理念とは、行為に変る事を知っている理念であり、良い言葉とは、事実で裏付けられる言葉である」。

彼は、事実を言葉が裏書きする事で判断しており、自説を主張する人に就いては、生活や行動から、その言葉を判断した。

「人間が、理念を体現するのであり、理念が人間を体現するのではない」種蒔きしないで刈り取ろうとする者は、常にいるものだ。

協同組合は、限定された実現である。吾々の社会的関心と計画は、自分達が参集する企業に留まるもではなく、企業の発展と共に、人々の幸福の為にも協同するのである。

吾々の活動は、企業構造の単なる改革を超えるもんであり、進歩の為に、社会的構造の改革と、推進の立場に立たなければならない。

協同組合主義は、解決なのではない、只、これに通じて解決が可能である事を、示すだけである。

行うよりも在ること、行動する前に認識することが、大事である。

人間は、常に反復するものである。

「実践により、実現する能力の無い人達の〝よい考え〟とは、危険な麻薬である。人間はその仕事によって、自らを確証するのである。休むことなく努力をして、事実として語らせよう」。

「吾々は、教師の教条の下痢にかかった、重大な時期にあるようにみえる。人間の性格が、後天的であったことや、又、吾々の周囲にあるものや、又は生得のものや、単に相続したもの々全てを変革する必要がある。」

「それを認めるならば、立派な理念やあれこれの観念論の実態を、その受用と適用に関して、事実や現実と対照とするのは当然である」。

理念と指導原理はよいものである、しかし行為や軽蔑したり、過小評価してはならない。経験は成熟した分別のある、人間の意識や要請に応えるときに、正当性がが生じる。

経験によって、自由正義の拡大・進歩的過程が、連続的に必要な水準に方向を適用する。素行の悪いものを、放置してはならないし、誰が種を蒔くのかも知れず、何が採れるかも知らないのではいけない。

民主的管理の危機とは、結局、或る時期に見合った方法の欠如であり、人間や社会の発展する人々や共同体は、深く確信し、行為に依て示さなければならない。

これは、新しい辺境に向けて、尊厳と連帯と人間と共同体の推進・発展に向かって、又構造の変革と下部と上部構造への、感覚を失う事無く進める確信である。

民主的管理には、信頼が不可欠である。そうでなければ罪の意識がなかったり、子供っぽさで行為したり、抑制のきかない計画を持った、社会正義や自由の観点で、行動Sる事に成る。

吾々は、現実の行動がより、前進出来るような、推進力を持たなければならない。民主的責任を堅め、其の規則として、完全な認識と全面的な責任を、社会的経済的に適用して、主体性と責任も同様に、確保しなければならない。

強調すべきは、立場や合意を分かち合う事である。吾々のモットーである「労働と団結」は結局の処、キチンとまじめに解釈されて共鳴を得ており、今尚、有効である。

そのこ

  • 最終更新:2014-04-30 18:43:37

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